【読書メモ】「社会人大学 人見知り学部 卒業見込」若林 正恭

 あれはいつだったか、Youtubeのオススメ欄で「オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです」(通称「オドぜひ」)という番組を見かけて以来、どっぷりオードリーにハマってしまった。今やオールナイトニッポンでのラジオトークを欠かさずに聞くリスナー、通称「リトルトゥース」である。

 

 なかでも若林さんは、なんとなく顔が似ているのもあって親近感があった。番組ごとでの立ち回りの上手さや話術の面白さの裏にある人間性や価値観に興味を持ち、今回、彼が雑誌「ダ・ヴィンチ」で執筆していたコラムをまとめた本書を手に取った次第である。

 

 結論すると、顔だけでなく価値観もまた似ていると感じた。世の中に対するひねくれ具合、天邪鬼な態度に、親近感を沸かさずにはいられなかった。

 

 私もまた、世論でいうところのへんこな人間である。

というものの、そのことに気づいたのはここ1,2年の話だ。それまではむしろ、自分が「その他一般」であることをひたすらに怖れ、もがいていた記憶がある。

 

 もがいているうちに、なんとなく生きづらさを感じるようになっていた。気づけば人間関係に煩わしさを感じたり、自分の意見を示すことがなかなかに苦手な人間が出来上がった。

 

 本書はそんなかんじで悩んでいる自分にとって一筋の光をくれた。

 

社会が自分を拒絶していたのではなかった。自分が社会を拒絶していたのだというオチだった。

 

社会というのは良いものでも悪いものでもなく、あくまでそこにあるもの。「社会に受け入れられていない」という感覚はある意味で自意識過剰であり、本当は自分から迎えに行くものなんじゃないかと、彼の文章を読み終えて感じた。

 

 若い頃の彼のように、私もまだまだ「社会人学部 人見知り学部」に在学中だ。まずは社会をフラットな目で見つめることから始めていきたい。

 

「自分を変える本」を読んだ後は、意識しているからか三日ぐらいはその形になるが、日常に晒され続けるとすぐ元の形に戻る。

 性格とは形状記憶合金のようなもので元々の形は変わらない。それに気づいたことが「自分を変える」本を読んだぼくの感想だった。

 

 そんなことを考えていた時、平野啓一郎さんの「ドーン」という小説を読んだ。その中に「ディヴ(分人)」という言葉が出てきてとても興味を引かれた。

 恋人といる時の自分、会社での自分、両親の前での自分と、人には様々な自分がいて、その分けられた一つ一つの自分のことをディヴ(分人)と呼んでいた。「キャラ」という言葉よりは操作性がなく、対人関係や居場所によって自然と作られる自分が「ディヴ(分人)」だ。

 

 「結果が全てだ」という考え方が世の中には蔓延している。プロなら過程は問題ではない。「結果を出せ」という考え方だ。しかし、ぼくの胸には「結果」自体は強くは残らなかった。それは実感だった。自分の胸を探ると、掴めるのはいつも過程だった。あれをあれだけやって、めんどくさかったし、大変だったけど、楽しかったな。完璧にはできなかったけど、自分なりにやったな。そんな単純な想いだけはいつも値が下がることなく胸に残っているのだ。「結果」はいつもそういうものの後にあとだしのじゃんけんのようにやってきた。

 天才は「結果が全てだ」と言えばいい。自分にはそれは関係のないものなのだ。

 特にすごい訳じゃなく、特にダメじゃない。 そんな自分の自己ベストを更新し続けていれば、「結果」があとからやってこようがこなかろうがいいじゃないかという諦めは、ぼくにとって自信になった。

 意外だった。

 良い結果の連続が自信を生むと信じ続けてきたから。この自信は「結果」がもたらす自信よりも信用できるものだった。

 

 その自信は不思議なことに、自分と社会というものを隔てていた黒い海の水を引かせて、往来を可能にした。唯一の参加資格と信じていた結果というものを必要とせずに自分と社会を渡り歩くことができる。社会が自分を拒絶していたのではなかった。自分が社会を拒絶していたというオチだった。

 これからも、結果は出たり出なかったりするだろう。だけど、自分にできることは常に過程を紡ぐことだけだ。そう。社会なんて自己ベストを更新していくだけでいいという自信さえあれば自由に参加していい場所だったんだ。

 

(中略)

 

 まだ、足元は覚束ないけど。

 自分も社会もどっちも素晴らしい世界だ。

 

 

完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)